故霧島昇・松原操の三女、大滝てる子が父母の心を歌い継ぎ、懐かしき昭和を歌う

メッセージ

〜 二代目松原操襲名の思い (大滝てる子改め 二代目松原操) 〜

今年早いもので両親、霧島昇・松原操の没後二十五年を迎えました。
今までいろいろなホールでコンサートをさせていただいて参りましたが、「いつか両親のそばで歌いたい・・・」そう願いつづけておりました。
六月二日、両親の眠る大本山永平寺別院長谷寺、武田監院老師様の格別のご配慮を賜り、仏堂に於きまして両親の追善コンサートをさせていただきました。
冒頭の鼓の音に誘われ、両親も仏堂に来てくれたようでした。
コンサートもあと一曲「旅の夜風」を残すだけとなったとき、次のようなご挨拶をさせていただきました。
「今日は皆様にひとつお許しいただきたいことがございます。今まで、大滝てる子として活動して参りましたが、今ではご存じの方が本当に少なくなってしまった、母「松原操」の名をどうしても残したい・・・。そのために、母の名を継ぐことが出来ればと思いつづけておりました。けれど、自分の拙い演奏を考えましたとき、やはり今まで思い切ることが出来ませんでした。そんな折、私の歌に一番厳しい主人が「その気持があるなら、今回の追善コンサートの折、皆様にお許しをいただけたら「松原操」を継いではどうか。歌える年月もそう長くはないのだから。」と言って背中を押してくれました。今日皆様にお許しをいただけましたら、「二代目松原操」として母の歌い残した人生を、新たな気持ちで歌い継いで参りたいと思っております。」
お客様のあたたかいご承認と激励の拍手に涙が溢れました。
実はやはり大変ためらいがあり、その日の朝まで申し上げることを迷っていたのでした。
けれどコンサートでは自分でも不思議なくらい、自然に迷いなく言葉が出てしまったのです。
何か母に導かれるようでした。
導かれると言えば、私が両親の歌を歌い出したのは両親が亡くなって五年ほど経った三十八歳のときでした。母が引退したのが三十七歳・・・「自分の歌い残した人生を継いでほしい」今考えれば、母の声に導かれるように歌い出したのかもしれません。
「子供が生きていくということは、親が生きていくことでもある。親の魂を生きつづけさせるには、子供が生きつづけなければならない」両親の歌はやはり両親の声で残っていくべきだ。
私が汚してはいけない・・との思いから抜け出せない頃出合った「言葉」、この言葉にもまた導かれたようです。
「拙い歌でも私が歌うことで、両親の魂を生きつづけさせることが出来るかもしれない」そう決心を致しました。
今、改めて考えます。
私が今、両親のために何が出来るのだろうか。
晩年の父は「お父ちゃんは必ずカムバックするんだ」こういい続けておりました。
全盛期の自分を必ず越えるんだ、「旅の夜風」を超えるヒット曲を出すんだ、そう願って過酷な練習を自分に課していたのでしょう。
昭和十三年「旅の夜風」で一世を風靡した父と母。
父の「苦悩」はこのとき始まっていたのかもしれない、とも思います。
いつも「あの頃」を越えなければ・・・きっとそう思いつづけ、いつも過去の自分と戦っていたのでしょう。
さぞ苦しかったことと思います。
その当時、まだ若かった私には到底理解出来ませんでしたが、最近になって父の心が良く分かるようになりました。
「カムバックするんだ」・・・という父の願いは叶わなくなりましたけれど、私が歌うことで、少しでも皆様に父のことを想い出していただけたら、それが私の使命のような気が致します。
また、私に「お前は絶対に歌をやめてはだめよ」と言い続けた母。
引退したことに大きな後悔のあった「母・松原操」が歌い残した人生を「二代目松原操」として代わりに歩んで行くことが、母への供養になるのではと考えました。
両親の名を汚すことのないよう精一杯精進し、両親の歌を一曲一曲大切に歌い継いで参りますので、今後とも何卒ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。



〜 「私のお母さん」秘話 〜

♪ひとりにしないで連れてって
すがって泣いた母でした
会えたでしょうか父さまに
私の歌うこの歌は
父母の心を歌い継ぐ
聞こえますか 見えますか
一緒に歌ってくれますか
空のむこうのお母さん・・・♪ (「私のお母さん」三番)

何度歌っても、父が亡くなったときの光景がありありと浮かんできて、どうしても涙が溢れてしまいます。
昭和五十九年四月、六月と相次いで、父・霧島昇、母・松原操が亡くなりました。
本当に夢のなかの出来事のようでした。
あんなに健康に気をつけていた父が手術を受けてから十ヶ月で亡くなるなんて考えもしませんでした。
そして母も一ヵ月半後に亡くなってしまい、私の人生で最もつらい時期でした。
親を失うことがこんなにも悲しいこととは・・・。
結婚もして、これから親孝行をと思っていたときでしたのに、本当に残念でなりません。
亡くなる前年、体調を崩した父は六月二十七日、自分の誕生日に手術を受けました。
手術前、ストレッチャーに寝かされ病室で待機しているとき、父は突然、発声練習を始めたのです。
自分の誕生日が手術日となり、「また、生まれ変わるんだ」と言っていた父。
再起を確信し、少しの間も惜しんでの発声練習だったのか、あるいは不安を消すためだったのか、どちらにしても父の歌への執念に圧倒される思いでした。
父は健康には人一倍、気をつけていました。
煙草は吸わない、お酒も制限し、毎日の体操、ジョギング、栄養剤・・と歌を支える健康のため、あらゆる神経を使っていたのです。
その父が病魔に侵されるとは、信じられない思いでした。
母は晩年、病気がちでしたが、その母をおいて先に父が逝ってしまうなんて。
父が危篤状態になったとき、母は別の病院に入院していましたが、かけつけて父の最期を看取りました。
臨終のとき「パパ置いていかないで、私も連れて行って!」と白い割烹着姿で少女のように泣きじゃくっていた姿が脳裡にやきついています。
それから一ヶ月半、母も後を追うように亡くなりました。

♪あなたの匂いがぬくもりが
 今日もほのかに香ります
 優しかったまなざしに
 あなたの人生偲びます
 あの日着ていた着物きて
 聞こえますか 見えますか
 一緒に歌ってくれますか♪
 空のむこうの 私のお母さん♪ (「私のお母さん」二番)

子供の頃、そしておとなになってからも、つらいこと悲しいことがあると、私はよく母の胸に顔をうずめました。
すると母は私の頭を撫でながら子守唄を歌ってくれるのです。
そうするとつらいことも悲しいことも一瞬で消え去ってしまいます。
そのときの母のぬくもり、母の匂い・・・。
つらいことがあると、今でもふっと想い出します。

♪あなたが歌ったこの歌を
 今日もわたしは歌います
 好きな歌をやめないで
 あなたはずっと歌うのよ
 私に残したひとことでした
 聞こえますか 見えますか
 一緒に歌ってくれますか
 空のむこうの 私のお母さん♪ (「私のお母さん」一番)

母は亡くなる数年前から「お前は絶対に歌をやめてはいけない」そう言い続けて亡くなりました。
大変決断力のある母でしたので、昭和二十三年、三十七歳で子供のためと潔く引退するときも、全く後悔はないものと思っていましたが、やはり好きな歌をやめることに、大きな苦しみと後悔があったのでしょう。
母は、今も歌をやめずにそして偶然母の引退した歳と同じ三十七才の頃から、導かれるように両親の歌を歌っている私を、喜んでくれているでしょうか。
あるとき、「子供が生きていくということは、親が生きていくことでもある。親の魂を生きつづけさせるには、子供が生きつづけなければならない」という言葉に出会いました。
「そうだ、両親の足元にも及ばない私の歌だけれど、私が歌うことで、両親の歌の魂だけは生きつづけさせるこが出来るのかもしれない」両親の歌を歌うことに大変ためらいがあった私にとって、背中を押してくれるような言葉でした。
四年前「霧島昇・松原操 逝いて二十年〜父母の思い出」として両親への気持ちを全国なつメロ愛好会の会報に掲載させて頂きました。
それを読まれた埼玉県の「上尾歌声広場」という童謡や抒情歌を歌う会の代表、藤原美保子さんがその文を詞にして下さいました。
ご自分のお母様への思いも重ねて、書いて下さったようです。
その詞に横山太郎さんが曲をつけて下さり、「私のお母さん」という曲ができ上がりました。
コンサートのアンコールでいつも歌わせて頂いていますが、その度に涙でお客様のお顔が見えなくなってしまいます。
この歌には、両親への私の気持ちが詰まっています。
そして歌う度に両親が私のもとに来てくれるのです。
お創り下さったお二人に心から感謝しております。
生涯歌い続けていく大切な大切な「私の心の歌」となりました。



〜 幼き日の想い出 〜

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